「桜の花は後悔するのだろうか」
実はこの本を思い出したのは、今年の満開の桜を見た時だった。
桜の花は華やかに咲き誇り、短くすぐに散って(散華して)しまう。
そこに生きることだけでも大変だった時代の古人は、桜花と自分を重ねて見たのかもしれない、しかし瞬きのような間でも精一杯満開で咲いて務めを果たした桜に後悔は無いだろうと、著者は触れる。
人の死亡率は100%で、後悔というのもどうしても避けられない。
どこかで聞いた話だが、人は2回死ぬとされている。
1回目は寿命が尽きた時。
2回目は自分を知っている人が完全にいなくなった時。
そういう意味でも精一杯生きて自分の証を残す、ということは大事なのかもしれない。
もし芸術作品なり創業した会社が残り続けたとしたら、その人はある意味永遠の生命とも言える。
余談だが、私の好きな作品「アカギ」でも
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砂や石や水・・・通常 俺たちが生命などないと思ってるものも 永遠と言っていい 長い時間のサイクルの中で 変化し続けていて
それはイコール
俺達の計りを超えた・・・生命なんじゃないか・・・と・・・!
死ぬことは・・・
その命に戻ることだ・・・!
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つまり死ぬ→土や砂に還る(戻る)→それは永遠のサイクル→自分たちは永遠の存在
と、名言を残している。
死ぬ間際の後悔というテーマと死生観はまた別物かもしれないが、自分を桜のような花と見立てた場合、どう咲いて・どう散って・どのように世の中にその軌跡が残り続けるのか?と疑問が湧いてきた。
(もちろん99.99%の花びらはただ散って忘れられていくんだろうけど)
なぜアラフォーで「死」を考えるのか
20代くらいまで考えないどころか、自分は病気もせず、死ぬことなんて考えもしなかった。
それが覆ったのは、体力の衰えをハッキリ自覚し始めて、白髪が出て、皮膚にも少しシミができるようになり、血便が出て健康診断で再検査の指摘を受けてからだw
そこからの2回の検査が実にきつかった。
2日間検査食を食べて、下剤でトイレに20回ほど行って腸をキレイにし、初めてケツからバリュームを注入して、結果はよくわからず。
そして今度はまた内視鏡を入れるために、2日間検査食を食べて、下剤でトイレに20回ほど行って腸をキレイにし、ケツから内視鏡を挿入w
そこで見つかったのはポリープ(腫瘍)だった。
それを取り除いて検査機関に回してもらい、1週間ほどして結果を聞いたら幸いにも「良性」だった。
この期に及んでも自分がガンになる可能性なんて考えてなく、検査が終わりほっとしたのっと、これで血便が治るんだ、くらいにしか思ってなかった。
(この間、実家の親は死ぬほど心配していたらしい)
後々になってよく考えると、これが悪いシナリオだったら、腫瘍は悪性で、20代はひたすら社畜し、そこから後悔しながら30歳そこそこで人生を終えていた、という可能性も十分にあり得たということが頭をよぎる。
アラフォーという時期は、10~20代で全く見えてなかった死神というやつが、はるか彼方(40年後?)にごま粒くらいの大きさで見え始めてきた時期な気がする。
タイトルの本を2度も思わず借りてしまったのも、こうした潜在意識が自分にそうさせたのかもしれない。
病院で涙を必死に堪えていた母親
検査や人の死で関連で思い出したのが、以前子供が脱腸の軽め手術のために2泊ほど入院していた時のこと。
通路で医者の説明から戻っていると思われる、ある母親とすれ違った。
その人は一生懸命涙を抑えていた。というか泣いていた。
その人の子供はうちの子とベッドが隣だった。
うちもその子もまだ子供が3歳ぐらいだったので、私たち夫婦は12時間交代くらいで病院に張り付いていたが、その母親は24時間ずっと子供のそばにいるようだった。
その母親の表情は常に深刻そうだったが、もちろんその子がどういう病状なのかは知る由もない。
ただ、この時も人の命や健康というものは大事なんだとしみじみした記憶がある。
この本から教わったこと
健康と時間を大事にして、できるうちに色々やっておこう!
と、自分へのメモとして、この本のレビュー兼独り言を終わりにしたい。